魚の居ない水槽。透き通った世界。綺麗な世界。
蒼色の其処に、雫を落として行く。広がっていくのは、緋色。
椅子に座り、それを眺める。
混ざり合う緋と蒼。綺麗なモノを穢していく感覚。それはとても残酷で、とても神秘的な空間。ゾクゾクする。
塗り潰してしまいたい。隙間も無くなる程、緋く。
けれど。それはまだ足りなくて。凡てを埋め尽くすはずの緋は紫になり、徐々に蒼に飲み込まれて逝った。
まだ、足りない。
「何を見ているんだ?」
遅れて部屋にやってきた彼が、僕の隣に座る。
「キレイでしょう?」
水槽の緋を指差す。けれど、其処にはもう蒼しか残っていなくて。
「…血が……」
彼は僕の腕を掴むと、其処から流れている血液を拭った。何も持っていなかったのか、彼の服で。穢れがまた一つ増える。
「一体、何をやっていたんだ?」
心配そうな眼。僕は彼から眼をそらすようにして水槽を見た。彼も視線を移す。
「淋しい水槽だな」
魚の居ない水槽。僕は綺麗だと思ったのに。彼は淋しいと形容する。それが、僕と彼の違い。
「だが、綺麗な色だ。蒼い。お前の、眼の色に似ている」
僕の眼を見つめ、彼は言った。こんなにも綺麗な水槽と僕の眼の色が似ているなんて。彼の眼はどうかしている。それとも『綺麗』ではなく、『淋しい』が似ているといっているのだろうか…。
どちらにしろ、溜息を吐くしかない。彼の眼に映っている僕は、本当の僕とはかけ離れた所に居る。きっとそいつは、彼の脳の中に在る人間たちの中から作り出された像で。本当の僕は、彼の未知の領域に在る。だから、彼は見ることが出来ない。本当の僕を。穢れた僕の姿を。
僕は立ち上がると、水槽の上に腕を出した。固まりかけていた傷口を指で強くなぞり、雫を落とす。再び広がる、緋。
「不二、何を…?」
何をやっているのか理解が追いついていない彼は、不思議そうに僕を見上げた。
「キレイでしょう?」
口元に、笑みを浮かべる。僕は彼の問いかけに答えずに、緋を足して行った。それでも。凡てを僕で埋め尽くすには未だ…
「足りない。」
呟く。眼に止まる鈍色。手に取り、傷口を抉る。
溢れ出す緋色。雫は連なり、一筋の流れが出来た。腕を伝う血液は指先から水槽へと落ちていく。けれど。蒼を侵蝕するには、全然足りない。
ナイフを持つ手に、力を込める。
「やめろっ」
僕の行動を理解できたのか。彼は大きな声を出すと、僕の手からナイフを奪い取った。嫌がる僕の腕を無理矢理引き寄せ、そこに舌を這わせる。指先から傷口まで、緋い軌跡を辿るように。
「珍しいね、君がこんな事をしてくれるなんて」
感じる体温。ゾクゾクする。
彼の体の中に取り込まれて行く僕の血液。それは緋が蒼を侵蝕して行くイメージに似て。凡てを壊したくなる衝動に駆られる。
「何で止めたの?」
「何故こんな事をしたんだ?」
彼は口元を汚したまま。僕の問いには答えず言った。咎めるような口調なのに、その眼は揺れていて。
「見せようと思ったんだ。僕に出来る唯一の『綺麗』を。誰よりも何よりも綺麗な、君に」
「何を、言っているんだ?」
眉間に皺を寄せる彼。そこに唇を落とすと、強く抱き締めた。ゆっくりと、彼の躰を倒して行く。
「……抵抗、しないんだね」
「抵抗しても、無駄なんだろう?」
「…………まあね」
クスリと微笑い、接吻けを交わす。指を絡めると、流れ続けている血液が、彼を染めた。
「汚れちゃったね」
「別に、構わん」
呟くと、彼の方から接吻けをしてきた。鉄の味のするそれは、自分を取り込んでいるのだという妙な錯覚を呼び起こさせ、笑えた。彼の方からキスをしてくるなんて。出逢った頃は想像すら出来なかった、彼の行動。けれど。今は接吻けだけではなく、僕の凡てを求めてくる事すらある。
綺麗な彼が、日に日に穢れていく。それは哀しい事だけど。同時に凄く嬉しい事でもある。
彼が僕の為だけの存在へと、成りつつあるという事実。
シャツのボタンを外す。現れる、白い肌。絵を描くように。彼の胸の上を、僕の指先が動く。軌跡には緋い色。
もっともっと穢れていけばいい。もっともっと緋く染まって。僕以外の存在に認められず、僕以外の存在を認められなくなるように。
けれど。彼は僕の所に来る日は永遠に来ないだろう。僕がどんなに彼を穢して、彼がどんなに穢れて逝ったとしても。
だって、それでも君は…
「きっと綺麗なんだろうから」
どんなに手を伸ばしても、届かない。それだけの、二人の距離。
「………不二?」
「手塚。好きだよ」
呟いて、唇を重ねた。血の味はいつの間にか消えていて、代わりに口内に広がったのは僕の知らない感情。
「不二。お前、泣いて――」
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