どうしてだろう。悪寒がする。
「か・お・る・ちゃん」
気味の悪い声が背後から聞こえた気がした。嫌な予感。幻聴だと思いたくて、おれは立ち止まらずに進んだ。でも。
「こんな所で会うなんて珍しいな。買い物か?」
幻聴ではなかったらしい。けれど、おれは構わず足を進めた。少しだけ、歩調を速めて。
「何処に行く気だ?そっちは行き止まりだぞ」
言うと、おれに覆い被さるように抱きついてきた。そのまま、全体重をおれに預けてきやがる。唯一の救いは、ここが人気の無い所だということか。
「…乾先輩。重いんすけど」
「お前が足を止めたら、放してやるよ」
わざとらしく、耳元で笑いやがる。こいつの言う通りに立ち止まってやるのは癪だが。このままずっと抱き付かれてても困る。
おれは言われたとおり、足を止めた。
「よし、いい子だ」
笑いながら言うと、先輩は身体を離した。なんだか子ども扱いされているようで、ムッとしたが。解放されたことに、とりあえず、一息吐く。
「重いんすよ、先輩は。肩凝るじゃないっすか」
振り返ったおれは、わざとらしく肩をまわして見せた。けれど、そんなことはこの人には通じないらしい。
「お前が小さいから悪いんだ」
ぽんぽんとおれの頭を叩きながら、また、笑った。小さいといっても、おれと先輩との身長差はたかだか10センチ程度。そもそも、おれの身長は、決して低くは無い。
「先輩がでかすぎるんですよ」
溜息まじりに言うと、先輩をそのままに、おれは来た道を引き返そうとした。が。
「なぁ、海堂。そんなに肩凝ってるなら、俺がマッサージしてやろうか?」
肩を掴まれ、引き寄せられる。耳元で笑う先輩の言葉に、全身に寒気が走った。
「断る。」
溜息を吐くと、おれは先輩の手を振り払おうとした。けれど、逆におれの手を掴まれてしまう。
「駄目だ。」
言うと同時にあてがわれる、先輩の、唇。
「…ん。……っめてください!」
言って、思いっきり先輩を突き飛ばした。一瞬だけだけれど、身を任せてしまったことに、自己嫌悪する。
「人が見てたらどうするんすか!」
壁に背中を打ったらしく、顔を歪めている先輩に言った。少しだけ、強く突き飛ばしすぎたかとも思ったが、自業自得だ、と自分に言い聞かせる。そう。この人は、おれ以上にしつこく、しぶとい人なんだ。
「……じゃあ、人が見てないところならいいのか?」
笑いながら言うと、先輩はおれの手を取り、歩き出した。
「何するんすか!放してくださいっ!」
何とかして、その手を振り解こうとするけど、先輩はそれに動じずに歩きつづけた。それどころか、あんまり五月蝿くしてると他の奴らに見られるぞ、と脅しまでかけてきやがる。こうなった先輩を止めるのは、おれじゃ無理。
おれは溜息を吐くと大人しく先輩に従うことにした。
「……んで?何処に行くんすか?」
暫く歩いた後、おれは先輩に聞いた。何処に行くとも言われてなかったし。
「さあ。考えてなかったな。何処がいい?」
立ち止まり、先輩は言った。どうやら本気で悩んでいるらしく、その姿におれは思わず吹き出してしまった。
「…何を笑ってるんだ?」
困惑気味に先輩が聞いてきたので、おれはまた笑った。
「いや…先輩でも、そんな顔をするんだと思って」
呼吸を整えるように、何度か深呼吸をする。おれの言葉に少しだけ不満をもったのか、先輩は咳払いをすると、腕を引き、また歩き始めた。
「っ先輩。で、結局何処に行くんすか?」
「………。」
「先輩?」
「………。」
まずった。どうやらおれは先輩の機嫌を損ねてしまったらしい。何を考えているのか、その横顔を見てみるけれど…。止めておこう。嫌な予感がする。
暫く黙ったまま歩いたところで、おれは見覚えのある道に出ていたことに気付いた。
「…もしかして、この道…」
「そう。俺ん家に行く道だ」
呟くおれに、先輩は笑って言った。
「大丈夫。今日は家に誰もいないから。何の気兼ねも無く、ことを運べるぞ」
どんな『こと』だ、と聞こうとして、止めた。おれを見下ろす先輩の愉しそうな顔が、それがどんなことだかを物語っていたから。
これだから、この人の機嫌を損ねると…。
鼻歌まじりに楽しそうに歩く先輩に、おれは後悔を大きな溜息にして吐き出した。
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