機械を通して聴こえてきたその知らせは、余りにも衝撃的で。
 目の前が真っ白になるという事が、本当にあるのだと。そのとき、知った。



「不二っ…!」
 霊安室の扉を開ける。薄暗い空気と気持ちの悪い風が、オレと入れ違いに部屋を出て行く。
 まず、目に映ったのは、白い布。
「手塚くん……」
 呼ばれて、オレは視線を映した。そこに居たのは、目を赤く腫らした、不二の家族。明るい家族だ。だが、今はその面影もないくらいに沈んでいる。やはり、嘘ではないのだ。
 何か、声をかけるべきなのだろうかと思った。だが、何と言ったらいいのか、理解らない。それに、今言葉を発したら、感情の糸が切れてしまいそうな気がして…。
「蜘蛛膜下出血ですって。多分、昨日こどもを助けた時に頭を強く打ったのだと思うわ」
 震える声で言うと、由美子さんは真っ白な寝台に近づいた。そこにある布をまくる。
 現れたのは、安らかな、不二の寝顔。今にも眼を醒ましそうだ。
「あ……ぁ…」
 言葉が零れそうになり、オレは必至で飲み込んだ。溢れそうになる涙を堪える為に、眼を逸らす。
「手塚くん。辛かったら、泣いてもいいのよ?」
 オレの肩を抱く、優しい手。家族だからなのだろうか。その体温が、余りにも過ぎていて、辛い。
「……そうね。暫く、手塚くんひとりにしてあげましょう?」
 不二の母の声は、由実子さんではなく裕太くんに向けられているようだった。目だけで、彼を見る。裕太くんは放心しているように見えた。
「…………。」
 何も答えない彼に、彼女は溜息を漏らした。由美子さんが、オレの肩を少し強く握る。
「大丈夫よね?」
 問いかけに、言葉を発すること無くオレは頷いた。彼女の手が、オレから離れ、暫くして扉の閉まる音が聞こえた。
 深とした部屋。微かに漂う、煙と香。薄暗いここは、まるで異世界のようだ。
「……不二?」
 顔を上げ、ゆっくりと寝台に近づく。やはり、眠っているようにしか見えない。情事のあと、ぼんやりとした意識の中で眺めていた寝顔と同じ。今にも、眼を醒ましそうで。きっと、触れれば温かい…。
「…………っぁ」
 驚くほどの冷たさに、オレは思わず後退さった。自分の手と、不二を交互に見つめる。
 ああ、そうか。不二は死んだんだ。急激に、理解する。
 不二は死んだ。だから、冷たい。雨に濡れて冷たい体のまま抱き合った時よりも、ずっと冷たい。生きている人間が持てる体温よりも遥かに冷たい、体。まるで、凍っているかのよう。
 もう一度、頬に触れてみる。見た目は、赤みが引いているとはいえ、眠っている時とさほど変わりはないのに。触れてみると、全く違う。不二の頬は冷たく、そして、硬かった。
 オレを優しく抱きしめてくれる、その温かく優しい腕は、もう何処にもない。
「……っ。不二っ。ふじぃ……なんでっ…こんな」
 涙が、溢れてくる。泣かないで、と困ったように微笑う不二の姿が頭に浮かぶ。が、目の前のモノは、ピクリともしない。
 オレの涙が、不二の頬に落ち、伝う。まるで、不二も泣いているようだ。けれど、それは錯覚。
「目を、開けろ。頼むから、開けてくれ……嘘だって言っ………いつものように微笑って…」
 不二の肩を掴み、何度も揺さぶる。固定されたように、頭は遅れること無く身体についてきた。それが、感情を余計に煽った。
「くそっ。くそっ」
 肩から手を離し、かわりに硬くなった体を叩く。痛いといって、眼を醒ましてくれそうな気がして。
「眼を醒ませよ。起きろよ。不二っ…」
 何度呼びかけても、何の変化も起こらない。悔しくて、有りっ丈の罵声を不二に浴びせる。何度もその体を叩き、揺さぶる。
 それでも、変わらない。
「………オレを置いて…逝くな…」
 膝から、力が抜ける。よろよろと、オレは床にへたり込んだ。左手はしっかりと不二の手を掴んだままで。
「不二…」
 叫び疲れたのか、もう、次の言葉は出てこなかった。気がつけば、涙も止まっている。
 違う、そうじゃない。オレはこんなに取り乱したりはしない。もっと、普通でいられる。ドラマやなんかとは違うんだ。ワザトラシイ。
 オレは二本の足でしっかりと立ち上がると、不二を見つめた。
 妙な気分だ。まるで自分の心が分離していく感じ。泣き叫ぼうとする自分を、さっきまでの自分を、遥か遠くから冷静に見ているもうひとりの自分。そうだ。オレはまだ冷静でいられる。
 急激に冷えていく心。涙は、きっと、もう出ない。
 ……この体は、もうすぐ焼かれてなくなる。映像を、感触を、体に刻み込まなければ。後ろの方で、声がした。
 両手で頬を優しく包み、唇を重ねる。何度も。何度も。多分、オレからの最初で最後のキス。不二がしてくれたのを思い出し、啄ばむように、何度も口付ける。凍ってしまった唇を温めるように、舌で舐め上げて。本当はもっとずっと濃密なものをしてやりたかったが、凍り付いてしまったその口は、幾ら押しやっても開いてくれない。
「不二。……好きだ」
 呟いて、キスをする。ただ、それの繰り返し。もうどうしようもないことだと、理解っていながらも。それだけを繰り返す。心の中は不思議と醒めていて。酷く静かだ。
 と。扉の開く音がして、オレは顔を上げた。顔を覗かせていたのは、それを見られたからなのか、オレの腫らした眼になのか判らなかったが、ばつの悪そうな顔をした裕太くんが立っていた。
 何がというわけでもなく、オレは頷き、不二から離れた。替わりに裕太くんが不二の前に立った。
「姉貴が…静かになったから様子を見てきてくれって。オレ、手塚さんが後追い自殺でもしてるのかと思ったよ」
 不二の体に掛かっているシーツを強く握り締める。彼の肩は、小刻みに震えていた。
「……オレは死なない」
「何でっ…」
 彼の問いかけの意味がわからず、オレはその隣に並んだ。涙を流し見上げる彼を、黙って見つめ返す。
「兄貴、死んじまったんだぜ?ズルイよ。おれを置いて……これじゃ、いつまで経っても兄貴を越せねぇじゃん…ズルイよ…」
 視線をオレから不二に移し、その体を揺する。シーツを握り締めたままで、何度も体を叩く。興奮してきたのか、彼はそのまま声を上げて泣き出した。
「裕太くん…」
 落ち着かせようと、肩に触れる。その手を、振り掃われた。
「何っで…手塚さんはそんなに、落ち着いてっ……兄貴、死んじゃっ……。もう、会えない」
 嗚咽まじりに言う。それはオレではなく、不二に言っているようでもあった。叫びながら何度もその体を叩き、揺する。オレはどうすることも出来ず。ただ、掃われた自分の手と、シーツを握り締めている彼の手を交互に眺めていた。
 ああ、そうか。ある一定のラインに立った時、人間はきっと二種類に分けられる。一つは彼のように狂い叫ぶ人間。そしてもう一つは、オレのように何も感じないようにと心を閉ざす人間。どちらも喪失感が強すぎて壊れてしまったことに変わりはない。ただ、ラインを突き破ったか、そこから急降下してしまったかの違い。
 と。
「裕太っ…」
 彼の声が聴こえたのだろう。霊安室に入ってきた由美子さんは、後ろから彼の体を強く抱きしめた。泣き叫ぶ彼をなだめるように、その頭を優しく撫でる。けれど、その眼には明らかな憎悪。それは真っ直ぐに眠ったままの不二に向けられていた。
 遺された者からの、先に逝ってしまった者への憎しみ。死が生み出すのは、何も悲しみばかりではないらしい。確かに、オレの中にも、自分を置いて先に逝ってしまった不二に対する憤りのようなものがある。
「じゃあ、オレは、これで…。連絡、ありがとうございました」
 彼女に、頭を下げる。彼女は小さく首を振ると、オレに対し笑顔をつくってくれた。
「いいの。周助から、あなたとの関係は聞いていたから。あの子の部屋、そのままにして置くつもりだけど。もし、何か引き取りたいものがあったら。いつでもいいからうちに来てね」
「……はい」
「それと…」
 呟いた彼女の手から見えた、白い紙。裕太くんを抱きしめている所為で動けないから、オレが彼女に近づき、それを受け取った。
「お通夜とお葬式の日程。もし、来られそうだったら……といっても、お葬式は平日の昼だけど」
 苦笑する。その眼はさっきここに入ってきたときよりも赤い。この人も、きっと泣きたいのだ、と。彼のように、壊れたように泣き叫びたい。それが出来ないから、憎むしかない…?
「必ず、伺います」
 直角に近い角度で頭を下げ、オレは扉へと向かった。手をかけたところで思い出す、言葉。
「由美子さん」
 振り返らずに、彼女に呼びかける。
「……何?」
「『辛かったら、泣いてもいいんですよ?』。」
 それだけを言うと、オレは扉を押し開けた。背後で、ありがとう、と呟く声が聴こえた。



 結局。通夜のときも葬式のときも、オレは泣くことが出来なかった。多分、あのときが最後だ。この先、思い出しても辛くても、涙を流すことはないだろう。そして、心から微笑うことも。あの日にオレの心は壊れ、凍てついてしまったのだから。
 とはいっても、腹は減るし、眠くもなる。オレの生活は今まで通り。ただ、少し景色が色褪せてはいるが。
 不思議な感じだ。もっと、何も出来なくなるのかと思っていた。この世で全てだと思っていた人間が死んで。待ち受けているのは、悲しみに明け暮れる日々。だが、全ては三日と持たなかった。悲しみも憎しみも、全ての感情は三日以内に慣れた。消えたわけではないが、慣れてしまった。これも、凍てついた心の成せる業なのだろうか?
「今度は、何とか上手く育てられそうだよ」
 窓から見える、青い空に向かって呟く。
 不二の遺品として貰ってきたのは、二枚の写真と、仙人掌。
 写真は、不二がそれを始める切欠になったという大きく引き伸ばされた入学式の桜の写真と、その後に二人で撮った写真。どちらもインスタントカメラで撮ったので、画質は良いとはいえない。だが、この二枚は二人の出会いの写真であり、そして、写真嫌いのオレと撮る側の不二が一緒に写っている唯一の写真。
 仙人掌は、不二から誕生日に貰ったものと同じもの。お揃いだと言って、不二は自分にも買っていたのだ。オレのは水の遣り過ぎで枯らせてしまったが、不二のは出窓で元気に育っていた。それを不二の部屋で見つけたとき、なんとなく嬉しくなって、貰ってきた。
 仙人掌は人の心が理解ると言った。ときどき話し掛けてやると喜ぶと。
 不二は、彼とどのような会話をしていたのだろう?その中に、オレは出てきていたのだろうか?………不二の居ない今となっては分からないが。
 霧吹きで、仙人掌に水をかける。キラキラと水の粒が太陽の光を反射して、眩暈がした。
 不二の遺品を貰いに行った日を最後に、不二の家には足を踏み入れていない。無理矢理に不二を忘れようと明るく振舞っている姉と、不二に完全に心を囚われたまま泣きつづけている弟。漂ってくる共通の思いは憎悪。耐えられない。
 広い世界で、ただ一人が死んでも、きっと何も変わらないだろうけれど。不二周助という人間が死んだことで、オレたちの小さな世界は大きく変わってしまったような気がする。
 それでも、いつかはその変化にも馴染んでしまうのだろうと思うと、虚しくなる。突然の不二の死に、意味があるとは思いたくないが。全く意味を持たないものだとも思いたくない。
 身勝手だな。お前も、オレも。
 溜息を吐く。と、窓に当たる雨音。オレは空を見上げた。
「……天気雨だ」
 真っ青な空から降ってくる雨粒が、泣けなくなってしまったオレの代わりに涙を溢しているようで、なんだか少しだけ微笑えた。





半分実話。(いや、ちぅはしてないよ。死んだの恋人じゃねぇし/笑)
忘れられなくても、慣れていくんだよ。

手塚が貰ってきた桜の写真についての別エピは『Last love song』を読んでください。




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