赤い絆 8 |
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目覚めるとそこは、みちるの見慣れた天井だった。自分の身に何が起こったのかは、思い出す必要も無かった。みちるはついに、手を汚した。 これで私も同じね。今度こそ、本当に。 自分の両手を眺めようとみちるは腕を持ち上げようとした。しかし、それは左手しか上手くいかず、そこで初めて自分の右手に温もりがあることに気が付いた。 また、私を抱き留めてくれた。 意識が途切れる瞬間、ウラヌスの温もりをみちるは感じていた。それはよく知る体温と同じもので、その安心感が結果としてネプチューンの瞼を閉じさせていた。 私の手、真っ赤だったわ。 左手を翳し、眺めてみる。その指は白いはずなのに、みちるの目には薄っすらと赤い色が重なって映った。そのことに、今更になってはるかの行動を理解する。 はるかはよく傷も汚れもついていない自分の手を汚れているといっては、取り付かれたように何度も手を洗っていた。みちるがいくら汚れてなどいないと、止めるようにと言っても、はるかは聞き入れなかった。それも当然だ。脳裏に焼きついた血の色は、幾ら手を洗ったところで消えるはずもない。 私は本当にはるかのこと、何も分かっていなかったのね。分かっているつもりで。本当は、何も。 でも、とみちるは思った。でもこれでやっと自分もはるかと同じになれた。これからははるかの苦しみや哀しみを本当に理解することが出来るはずだと。 「はるか」 自分の手を包むように握りしめたまま、ベッドに頭を乗せて眠っているはるかを見つめる。長いことそうしていたのだろう。触れているはるかの手は、温もりを感じないほどにみちるの手に馴染んでいた。 体温を確かめるよう緩んでいた手を握ると、はるかの長い指がそれに答えるように僅かに動く。だが、その感触に目を覚ましたはるかはベッドから頭を上げると、みちるの手をすり抜けてしまった。 「おはよ」 両手をベッドから下ろし、ばつが悪そうにはるかが呟く。 「おはよう、はるか」 はるかの右頬が少し赤くなっていることに、みちるは微笑いながら言った。 「貴女が、ここまで運んでくれたのね」 「ああ。すまない」 しかし、微笑むみちるとは反対に、はるかは視線を落とすと沈んだ声で返した。 どうして謝るの。みちるは訊こうとしたが、その先にある答えが分かった気がして、口を閉ざした。冷え始めてきた手を突っ張り、上体を起こす。 「疲れてるんだ、まだ寝てろよ」 そんなみちるに、はるかは優しく言うと、その声とは対照的な強い力でみちるの肩を掴むと、ベッドへと押し付けた。 はるかのほうが、何倍も疲れているはずなのに。 はるかの優しさにみちるは心を痛めながら、それでも自分の肩に触れているはるかの左手を捉えた。容易く解かれてしまわないよう、しっかりと繋ぐ。その強さに、手を引こうとしたはるかだったが、一瞬だけで逃れることを諦めてしまった。 「ありがとう。それから、ごめんなさい」 困ったように自分を見つめるはるかに、みちるが言う。 その言葉に、はるかは再びみちるから目をそらした。繋いだ手から伝わる温もりが痛みに思えてきて、顔をしかめる。 先ほどの戦闘でのみちるの行動にはるかは嫌な予感を覚えていたのだが、それは予感ではなく、事実だったようだ。 はるかの言葉の真意に、みちるは気付いていた。 「どうして。君が、謝るんだよ」 謝らなければならないのは自分のほうだとはるかは思った。自分はいつも、みちるを傷つけてしまう。 タリスマンが自分たちの中にあると知った時、みちるははるかを守るために傷つき、そして倒れた。今回もまた、みちるははるかを守るために赤く染まった。それは決してみちるの自身の血ではなかったが、はるかを守るための行動であり、そのことでみちるが負荷を負ったことに変わりはない。 ただ、今回はそれだけではなかった。その前に、はるかの言葉の真意を知った時点で、みちるの心は深く傷ついていたはずだった。 くそっ。どうして僕はいつも。 「だって私」 「もう、こんな事はないと思ってたから。ずっと黙ってたんだけど」 みちるの口からこれ以上謝罪の言葉を聞きたくなくて、はるかは遮るように切り出した。 小さく溜息を吐き、窓の外を眺める。 「覚醒した当時、まだ力を上手くコントロールできなくて。自分を自分じゃない誰かが動かしているような感覚に陥ることが、何度かあった。苦戦を強いられて、より強い力を引き出さなければならない時なんかは特に。けどそれも、戦いに慣れるにつれてなくなっていった。だからもう、大丈夫なんだと思ってた」 一度もみちるにしたことのなかった、することもないだろうと思っていた話。だが、今はこの話をすることが必要だと、はるかは思った。はるかの言葉の真意に気付いたみちるに、少しでもあの時の自分の行動が仕方のないものだったのだと思わせるために。 しかし、そんなはるかの考えは、みちるにとって逆効果にしかならなかった。 「そんな」 自分の知らないところではるかがそんな事態に陥っていたという事実に、みちるは胸の罪悪が重みを増していくのを感じた。何も気付かず、はるかと共に使命に身を投じることを倖せだと感じていた自分。 どんな顔をしたらいいのか分からず、みちるは繋いだままの手に視線を落とした。固く握りしめた手は、はるかを逃さないためではなく、いつの間にかみちる自身が逃れないようにするためのものになっていた。 「もしかして。今回も、それが」 震える声で、みちるが問う。 「分からない。そうだと、信じたい。けど」 けど、きっと違うだろうとはるかは思った。これまでのものと違うのか、これまでのものも総て違っていたのかは分からなかったが。どれも総て自分であるということだけは分かっていた。 視線を窓からみちるへと移す。 「みちるは、見たんだろ。僕の。あの、笑みを」 「それは」 はるかの質問に、みちるは目だけを動かしてはるかを見ると、すぐにまた視線を落とした。 その行動に答えを見い出したはるかが、自嘲気味に笑う。 「あれは力の暴走なんかじゃない。僕以外の誰かなんかじゃなかったんだ。あれは間違いなく、僕の感情。結局、手が血に塗れていようがいまいが、僕は。既に、汚れていたんだ」 軽く話すつもりだったのがどうしても感情が昂ぶってしまい、はるかは右手で拳を作ると、ベッドを強く叩いた。左手は未だみちるの手の中で逃れようともがいていたのだが、みちるがそれを許さなかった。いや、みちるは自分のために、それを解くことが出来ないでいた。 「それでも、いいわ」 短い沈黙の後、みちるは呟くようにして言うと体を起こした。左手を伸ばし、未だベッドに押し付けているはるかの右手に触れる。 「それでもいいわ。貴女を傷つけて、今更、説得力なんて無いのかもしれないけれど。それでも」 言いかけて、みちるは言葉を詰めた。 自分がこれから言おうとしていることが、どれほど都合のいいことなのか、みちるはよく分かっていた。しかしこれだけはどうしても伝えたと思った。またはるかを救えるかどうか分からないし、信じてもらえるかどうかすら分からない。それでも、どうしても伝えたかった。そのために、みちるははるかを捜し、血に塗れたのだから。 「はるか」 深呼吸をして、今度こそ、はるかを真っ直ぐに見つめる。 「私は、貴女の手が好きよ」 繋いだ手を、強く握りしめて。 「どんな私でも受け止めてくれる貴女の手が。はるかが、好き」 「けど僕はもう、君を」 「私もっ。貴女と同じになったわ。血に塗れたの。だからもう、はるかの手で私の手が汚れることはないのよ」 繋いだはるかの手をかかげ、みちるはあの時のように微笑んだ。 その手は、あの時とは違って赤い影を落としてはいたが、その幻が二人の区別をつかなくさせていることに、みちるは満足していた。 だが。 「違う」 吐き捨てるようにはるかは言うと、みちるの手を強引に振り解いた。自由になった両手を見つめては、そのまま自分の両腕を抱きしめる。 「それでも、僕と君は違う。君が、血に塗れたくらいじゃ。僕と同じになんてなれない。僕はっ。僕は君を守るためじゃなく、自分が愉しむためにあんなことをしたんだ」 血を浴びて楽しげに笑っていたウラヌス。同じように赤く染まっても、青ざめた顔で無理に微笑んで見せたネプチューンとは、何もかもが違う。 「くそっ」 握りしめている手に込められた力のせいだけではなく、はるかの体が震える。 怖い、とはるかは感じていた。それならばまだ、自分が自分でなくなるほうがマシだと思った。結局、どう足掻いても自分である以上、いいわけはきかない。顔を背けることも、逃げることもできない。だが、受け入れることはなによりもはるかに恐怖と苦痛を与えていた。 「私はそれでもいいわ」 なだめるというよりは哀願するような声色。卑怯だとは思ったが、はるかにはこの方が有効的だとみちるは知っていた。今更、汚れているだとか、いないだとか、そういったことについてあれこれ言ったところで、恐らくはるかは聞く耳を持たないだろう。それならば、と。 「君がよくても。僕が、駄目なんだ。僕のせいで、君を汚したくない。巻き込みたく、ないんだ」 みちるの言葉に、はるかは声を上げることこそしなかったものの、その視線は足元に落ちた。そんなはるかの姿が胸に痛く、みちるは手を滑らせると、不恰好にもはるかを強く抱きしめた。 「巻き込むのなら、私のほうだわ。そう。ずっと、貴女に謝りたかったの」 はるかの耳元で、今にも消え入りそうな声で言うと、みちるは体を離した。 「だから。どうして君が謝るんだ」 ようやく顔を上げたはるかが、真っ直ぐにみちるを見つめる。 本当に、この人は。 少しもみちるを責める気配のないはるかの目に、みちるは顔を背けたくなった。だが、深呼吸をしてそれを堪えると、再びはるかの手に触れた。その手は未だ腕を掴んではいたものの、既に力は抜けていて。みちるが触れただけで容易くその腕から剥がれ落ちた。 「私は、貴女を戦士の道へと巻き込んでしまったわ。貴女から大切な夢を奪って」 「そんなこと。僕は巻き込まれたなんて思ってない。僕は、自分の意志で」 「聞いて、はるか。私は、はるかから夢を奪った。私のつまらない告白で、貴女に戦士の道を選ばせてしまったの。そのことをずっと後悔していた。いいえ、今でも後悔しているわ。してる、はず、なのに。それなのに私はっ。心のどこかで、戦士として貴女と共にいられることを喜んでいるの。二人を繋ぐ使命に感謝すらしているのよ。酷いでしょう」 「みちる」 考えもしなかったみちるの言葉に、はるかはなんと答えたらいいのか分からず、ただその名を呟いた。みちるが謝っているのは、昨日自分を拒絶したことについてだとばかり、はるかは思っていた。 「それに私は。はるかの帰る場所まで奪おうとした。戦士であることを喜んでおきながら。血塗れの貴女を見て、拒絶、するなんて。私っ」 そう言ってはるかから手を離すと、みちるは自分の顔を覆った。 自分は何て最低なんだろうとみちるは思った。はるかの葛藤も知らないでひとりで倖せな気分になって。それなのに、いざとなったらはるかを拒絶するなんて。本当に、身勝手で最低だ。 「ごめん。みちるがそんな風に悩んでたのに、気付かなくて」 息が詰まりそうな沈黙の後、はるかは溜息を吐くと、優しく言った。 「ごめん」 未だ顔を覆っているみちるの手を剥がし、覗きこむ。 「どうして、はるかが」 「謝るのかって。それはこっちの科白だよ、みちる」 「はるか」 「僕はそんなこと、考えてもみなかった。さっきも言ったけど、僕は自分の意志で戦士への道を選んだんだ。君と一緒にいたくて、ね。だから、君と使命という絆で結ばれていることを嬉しく思った。君だけじゃない、僕だって、この戦いが終わらなければいいとずっと思ってたんだ。だって、使命を果たしたら、僕たちは別々の道を歩むんじゃないかって、あの頃はそう思ってたから。ま、それは無用な心配だったわけだけど」 でもまさか、そのことが二人を引き離す原因になるなんて思ってもみなかったけど、と。はるかはそこまでは口にせずに思った。 世界を沈黙から救った今も、二人が共にいられるのであれば、使命なんていらないのかもしれない。昨日からはるかはそんなことを考えていた。理由も無く共にいられるのであれば、理由になるものは排除した方がいい。いつそれが、別の理由に使われるか分からないのだから。 「それに。僕はまた、帰ってきた。君の所に。だから、君が謝る必要は何処にもないんだ」 みちる、と優しく呼ぶと、はるかは潤んだ目で自分を見つめているみちるに顔を寄せた。しかし、唇が触れる前に動きが止まる。 そうだ。みちるは悪くない。謝る必要も、責任を感じる必要すら。でも、僕は。 「はるか」 躊躇うはるかに、今度はみちるが距離を詰めた。触れ合う唇はどうしても温かく、そのことにはるかは絶望したが、みちるは安堵を覚えていた。 「私は、酷い女だから。血塗れの貴女を見て、またその手をとれなくなるときがくるかもしれないわ。でも、それでもはるかと離れていたくないの。だって、どんな貴女でも、結局、はるかははるかなんですもの」 どんな僕であれ、結局僕であることに変わりはない、か。 微笑みながら言ったみちるの言葉は、その意に反して、はるかの胸に楔を打った。だが、それでもみちるが自分を必要としてくれていることに、はるかは胸の痛みさえも甘く響いてくるように思えた。そう、痛みは決して消えたわけではないが。 「貴女が夢を失ってまで私と一緒にいたいって思ってくれたように。私も、どんなに汚れてもいいから、貴女と一緒にいたいの。それはまだ、少し怖いけれど」 「それなら」 「はるか以外に抱きしめられたくないの」 「みちる」 「あの時のはるかは、確かに怖かったわ。どうしても受け入れられない何かがあった。でも。だけど。それでも貴女に、はるかにだけ触れて欲しいの。私の手の先にあるのは、はるか以外の手であって欲しくないのよ」 言いながら、何て身勝手なのだろうとみちるは思った。これだけはるかを傷つけたのに、なおも自分ははるかに重荷を背負わせようとしている。 結局、私がはるかと離れたくないだけなんだわ。はるかは、私のために私から離れようとしているのに。私は、自分のことばかりで。 だが、自分が優しさを与えたのでは、はるかは恐らく安らぎを得られない。他人に優しさを受け入れてもらうことで、はるかは安心するはずなのだと。言い訳のようだと感じながらも、みちるは思った。 「だから。ずるいとは分かっているけど。私がはるかの手をとることに躊躇ったその時は」 「その、時は」 「はるかが私の手をとって。そして絶対に、何があっても離さないで。私と一緒にいたいと思うのなら、私を汚すことを躊躇わないで。もし、こんな私でも、愛していてくれるのなら」 そう言うと、みちるは繋いでいた手を持ち上げた。はるかが腕に力を入れたのを確かめてから、力を抜く。重力に従い、ゆっくりと滑り落ちるみちるの手。その手が完全に離れてしまう前に、はるかは指先に力を入れてその手を繋ぎ止めた。 「大丈夫。君は、どう足掻いたって、僕の愛する海王みちるだよ」 きっと君は、地獄にいたって美しいままなんだ。 みちるの変わらない手の温もりを感じながら、はるかは思った。それは、つい先程まではるかに絶望だけを与えていたが、今は同時に安らぎも与えていた。 もしかしたら自分は、この手が汚れることではなく、みちるに拒絶されることが怖かっただけなのかもしれない。そんな風にはるかは思った。 だがこれからは、例え拒絶されたとしても構わない。今まではみちるがこの手を取るのを待つばかりだったが、これからは自分からその手を奪ってもいいのだと。そう思えた途端、はるかは、血塗れで笑っていたウラヌスが誰であろうと構わないような気さえしていた。 単純だな。 だからこそ、また同じようなことが起これば、同じように痛みを感じてしまうかもしれないけれど。とりあえず、今は。みちるが微笑ってくれるのなら。それに。僕だって、みちるを手放したいわけじゃない。みちるがそれを望むなら。僕は。 それでもきっと、彼女を汚すことなんて出来ないだろうけど。 「勝手なのは分かってるわ。どれだけ貴女を傷つけたか。そして、これから傷つけていくか。だけど」 「知らないぜ」 みちるの言葉を遮り、はるかは言った。見つめ返すみちるに、優しく微笑う。 「その手に、僕以外が馴染まなくなって。いつか弓すらもてなくなったとしても、さ」 「はるか」 いつもの調子に戻って言うはるかに、みちるは呟くと、目を伏せた。 やっぱり貴女は優しいわ。本当に、優しい。 「ごめんなさい」 涙の代わりに、俯いたみちるの口からそんな言葉が漏れてくる。すると、はるかの右手が伸びてきて、みちるの頬に触れた。その手はゆっくりと滑り、みちるの顔を上げさせる。 「みちる。選ぶ言葉、間違ってる」 唇を離したはるかは、優しい声で言うと、少しだけ困ったように微笑んだ。 その顔に、一瞬だけ、あのウラヌスの姿が重なる。そのことにみちるは体を強張らせたが、今度は触れている手を拒まなかった。いや、拒もうとしても、きっとそれをはるかが許さなかっただろう。 大丈夫。だってはるかの手は、こんなにも温かいんだもの。 頬に触れているはるかの手。その温もりを、みちるは信じようと思った。まだ、信じられると言い切れない何かが残ってはいたが。それでも。 「ありがとう、はるか」 はるかの手を剥がし指を絡ませると、みちるは一筋の涙を流し、微笑んだ。 固く結び合った手には、相変わらず赤い影が重なってはいたが、みちるはそれが赤い糸のかわりになってくれるよう願いを込めると、はるかの小指にそっと唇を落とした。 【END】 【BACK】 |
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