満月


 もう直ぐ、満月が来る。
 暫く感じることのなかった、満月の予感。人狼になる不安感。そんなのが、じわじわと体に広がっていた。犬歯も鋭くなり、爪も、異常な早さで伸びている。本当に、久しぶりだ。
 彼にアイシテルと言われてから。満月の時だけ人狼になっていた。それまでも、満月の時だけといえば、満月の時だけなのだけれど。その前後数日は、今みたいに歯や爪が人間よりもほんのちょっとだけ鋭くなる。でもそれは、俺が人狼になる回数を幾らか重ねてきてからのことで。そして、ここ半年くらいなかったことだ。
 そう、半年。もう半年か、まだ半年か。それは分からない、けど。
 彼とはもう一年も一緒に、今は一緒じゃないけど、一応一緒にいる。アイシテルと言われてから半年。それを言われる前に半年。だから、一年。今は、秋だ。
 アイシテルと言われた時、初めて彼と体を重ねた。それから殆んど毎日、体を重ねている。多分、その所為。それが原因で、俺の野生化は少しずつ減っていたのだと思う。
 人狼になっている時に記憶を失うことが何度かあったけど。彼とのセックスが激しくなる毎に、それは無くなっていった。今は、人狼の間もずっと、以前のように理性を保っていられる。
 それはきっと、俺の野性の部分が彼との行為の中で、昇華されて行っているから。だってその時、俺を見つめる彼の眼は獲物を狙う獣のようだし、俺の口からは獣のような声しか出て来ない。それに、二人の間に流れる色んなぐちゃぐちゃしたものは、獣のにおいがする。もしかしたら、人狼でいる時よりも、獣に近いかもしれない。俺も、そして、人間である筈の彼も。
 けど。その彼は、もう一週間も俺の元から離れている。出張だと、言っていた。三日で帰るよ。なんて。嘘吐き。
 もしかしたら、俺は、また捨てられたのかもしれない。ふとそんな考えが、頭を過ぎった。いつもなら、こんな考えはしない。もしかしたら仕事が増えてしまったのかもしれない、とか。怪我をしたり病気になったりして身動きが取れないのかもしれない、とか。富豪だから攫われてしまったのかもしれない、とか。そんな風に、考える。でも今は、俺は飽きられてしまったのかもしれない、なんて思う。
 きっと、人狼になる不安が、こんな考えを引き起こしているのだろう。引き起こしているのだと思う。引き起こしてないと、いけない。だって、もしこれが第六感なのだとしたら。今日ほど俺は、自分の野性を恨んだ事はないだろう。
 大丈夫、彼はきっと帰ってくる。今夜は遅いから、無理だけど。明日、帰ってくる。それで、いつもみたいに優しい笑顔で俺を呼んで、力強い腕で俺を抱き締めて、獣のような眼で俺を求めてくるんだ。
 大丈夫、大丈夫。まるで呪文みたいに繰り返す。繰り返しながら、一週間前の彼を思い出して、俺はいつの間にか張り詰めていたそこに手を伸ばした。
 久しぶりの、自慰行為。彼と出会ってからはずっとやっていなかった。
 彼の前に俺の体を開いた奴等に、強要されて人の前でやったことはあるけど。そんなもの、進んでやりたいとは思わなかったから。彼はいつも俺を見ていて。だから、俺は自慰行為をすることはなかった。
 それに。そんな事するくらいなら、僕がしてあげるから。肌を何度か合わせた後、自慰行為について彼に訊かれた時。以前はしていた。見られるのは恥ずかしいから我慢しているけれど、今でも時々したくなる。そう答えたら、彼は、だったら僕が、と言って、俺のものを舐めてくれた。幾らでも、君の満足するまでしてあげる。俺の出したもので口元を汚しながら、彼はけれど嬉しそうに言ってくれた。
「嘘吐き」
 ぽつり、呟く。けれど、それを受け取る相手はずっと不在だから。壁に当たって跳ね返ってきた自分の声に、泣きそうになった。でもここで泣いたら何だか負けなような気がして。俺は必死で彼の姿を思い浮かべると、淋しさを忘れるように自分を慰めた。

 そして、満月。彼は、不在。
 俺の体は、見事に人狼になっていた。淋しさに、窓を開けて赤い月に吠える。
 吠える、という行為は、自分が獣になったみたいでずっと嫌いだった。でも、今は吠えたくて仕方がなかった。少しでも彼に届くように。届かなくても、自己満足だけでもしたくて、必死で、彼を想った。想って、吠えた。けれど、返事は勿論返ってこなくて。少しだけ、苛立つ。
 野生化、してしまえば。彼の事を想って淋しいと感じることもなくなるのかもしれない。ふと、そんな考えが浮かんだ。浮かんだけど、無理矢理に心の奥底に押し込めた。駄目だ。月から目を逸らし、呟く。
 それだけは、駄目だ。淋しいと感じることが無くなるのだとしても、逆に、嬉しいと感じることも無くなってしまうから。彼と一緒にいることに安らぎを感じて、微笑って。そんな、人間らしさみたいなもの。全部無くしてしまう。違う、人間らしさを失うのが怖いわけじゃない。彼を失うのが怖い。俺の中から消えてしまうのが。
「嫌だ」
 呟く。何度も、嫌だ、と呟く。頭から飛び出ている耳や、尻尾が酷く恨めしかった。鋭い歯や爪が、邪魔だった。俺にこんな思いをさせる彼が、嫌いだった。でも、そんなことよりも何よりも、自分自身が嫌だった。数日前に押し込めた涙を流している自分が。

 それから、どれくらい経ったのかは知らないけれど。ずっと。放心したように壁に寄り掛かって、窓の外の満月を見ていた。流れていた涙は止まって、乾いて。けれど拭っていないから、跡だけははっきりと残っていた。
 まだ、夜は明けない。
 夜を、こんなにも長いと感じたのは、久しぶりだった。
 母親に捨てられた時。この姿を見られたくなくて、狭い路地に逃げ込んで。膝を抱えていたあの夜。今は寒くもないし、ひもじくも無いけれど。でも、あの夜と同じくらい淋しくて、長い。
「周助」
 膝を抱えて、頭を埋めて、呟く。周助。もう一度、呟く。淋しさと同時に、また苛立ちが俺を襲った。狼でいる間は、酷く攻撃的になる。その前後は酷く弱気なのに。
「バカっ」
 何度か名前を呼んだ後。吐き出すように、俺は言った。
「ごめん」
 突然、聴こえた声。驚いて顔を上げると、懐かしいにおいがした。顔を埋めていて、自分のにおいに埋もれていたから、気付かなかった。
「遅くなって、ごめんね」
 待ち焦がれていたその人は、音もなく扉を閉めると、俺の元へ近寄って両手を広げた。
「リョーマ。ただいま」
 一週間ぶりの、優しい笑顔。嬉しくなって、俺は立ち上がった。尻尾が、激しく左右に振れる。けれど。
「駄目」
 彼の胸に飛び込もうと駆け出した時。嬉しさよりも、怒りが、俺の体を支配した。ずっと俺を独りにしていたことに対する、なのか。ずっと俺を閉じ込めていたことに対する、なのか。もしかしたら、俺自身に対する、怒りなのかもしれないけれど。兎に角、俺は怒っていた。駄目。呟いて、止まろうとする。でも、止まれなくて。
「っあ」
 短い、声を上げて。彼は倒れた。殆んど足になった手で彼を押し倒した俺は、駄目だ、嫌だ、と叫びながらも彼の左肩に噛み付いていた。じわ、と口の中に血の味が広がる。早く、離さなきゃ。思う気持ちとは反対に、俺の牙は深く彼に喰い込む。血のにおいに興奮して、更に強く、噛み付く。
 嫌だ。彼の肩に噛み付いたままで呟く。消えてしまいそうな理性を、繋ぐように。
「っめん。ごめんね」
 痛い、筈なのに。彼は相変わらず優しい声で囁くと、俺を突き放そうとせず、俺の頭に右手を乗せて。逆に、自分の肩に俺の頭を押し付けてきた。失血で殆んど動かないのか、左手は俺の体に置くようにして乗せて。抱き締める。
「嫌だ」
 それが凄く嬉しかったけれど。俺は相変わらず、嫌だ、と呟き続けていた。彼の肩を噛み、止まっていた筈の涙を流しながら。嫌だ、と呟く。何が嫌なのか、嫌だったのか。もう殆んど分からなくなっていたけれど。それでも、呟く事は止められなかった。
 彼の温もりと、優しさと。血のにおいを全身に感じながら。人間に戻るまで、俺はずっとそうしていた。

「ん」
 生温い、もの。全身にそれを感じて、俺は目を開けた。
「ごめん。起こしちゃったみたいだね」
 徐々にはっきりとしてくる視界。そこに映ったのは、苦笑いを浮かべている彼だった。その肩には、包帯が巻かれている。どうやら俺は、彼に噛み付いたまま、眠ってしまっていたらしい。
「起きたのなら、自分で洗うかい。甘えたいのなら、僕が洗ってあげてもいいけれど」
 そう言うと、彼は俺の返事も待たず、俺の体についた彼の血液や、ずっとほったらかしにしていた俺の精液を洗った。右手だけで。器用に。
 甘えたい気持ちと、申し訳ない気持ちが同じくらいで。俺の頭は軽く混乱していた。どうして良いか分からずにされるがままになっていると、こっちへおいで、と手招きをされた。浴槽から出て、濡れたまま、彼の膝の上に座る。
「ごめんなさい」
 熱い湯を浴びながら、俺は呟いた。彼は服を着たままだったから、どんどん濡れて行った。包帯も濡れて、そこから血が滲んでいる。それから目をそらして、俺はもう一度、ごめんなさい、と呟いた。直ぐ隣で、彼が、微笑う。
「謝るのは僕の方だ。ごめんね、ずっと、独りにして」
 シャワーノズルを落とす。と、彼は俺を抱き締めて言った。左手はまだ上手く動かないらしく、右手で左手を強く掴んでいた。
 赤く滲んだ包帯から、微かに血のにおい。
「肩」
「肩なんて、どうでも良いよ。それよりも、きっと、リョーマの心の方が痛かっただろうから」
 ごめんね。昨日、何回訊いたか分からない言葉。苦しそうな声で言うと、彼は更に強く、俺を抱き締めた。ごめん、淋しかったよね。言って、振り返る俺にキスをする。その唇が直ぐに離れてしまったから。俺は追いかけると、もっと深く唇を重ねた。彼の体を抱き締めて、舌を絡める。瞬間、彼の顔が歪んだ。傷に、障ったのかも知れない。そう思ったけれど、止められなかった。昨日は噛み付くことを止められなかったけれど。今日は、キスをすることを、止められない。
「今日、俺が上になるから。周助は、寝てていい、から」
 だから、してもいい。離した唇を耳元に寄せて、問いかける。短い沈黙の後、吐息混じりの微笑い声が俺の耳に届いた。くすぐったくて、身を捩る。
「それで、この一週間を許してくれるなら、良いよ」
 体を離して見つめる俺に、彼はそう言うと微笑った。けれど、俺が首を横に振ったから。その笑顔は直ぐに曇ってしまった。やっぱり、僕を許してはくれない。訊いてくるから。また、首を横に振る。
「許して貰うのは俺の方。周助を傷つけた、俺の方。周助だって、俺に会えなくて、ずっと、辛かったはずなのに」
 辛かったんでしょ。今度は俺が、彼に問う。すると彼は、苦笑しながら、辛かったな、と言った。辛かった。もう一度呟いて、俺に啄ばむようなキスをしてくる。
「だから。俺が動くから。また、獣みたいなこと、しよう。昨日みたいなのじゃなくて、一週間前までしてた事。しよう。俺、頑張るから。だから」
 昨日の俺を、嫌いにならないで。俯いて、呟く。折角視線を外したのに。彼は俺の顎を掴んで上を向かせると、真っ直ぐに見つめてきた。
「僕は、人狼の君を知った上で、君を抱いたんだ。愛してるって、言ったんだよ。そんな僕が、リョーマを嫌いになる筈がないじゃないか」
 言ったはずだよ。リョーマになら殺されても良いって。目を細めて、微笑う。またキスをしてこようとしたけれど。今度は、俺はそれを拒んだ。
「俺はアンタを、周助を殺さない。例え理性を失っても、周助だけは殺さない。殺したくないんだ。だから。そういう事、言わないで。お願いだから」
 血の滲んだ包帯。それを解き、傷に舌を這わせる。彼は暫くそのまま俺を放っておいたけれど。
「僕に噛み付いて離れなかった子が、言う科白じゃないよね」
 俺の額を押して距離を置くと、そう言って苦笑した。ごめんなさい。呟こうと開いた口を、塞がれる。
「じゃあ、行こうか」
「周助」
「獣みたいな事、するんでしょう」
 訳が分からず見つめた俺に、彼はそう言って微笑うと、手を伸ばして湯を止めた。その手を俺の体に通して、抱き上げる。傷が痛むのだろう。彼の顔が、僅かに歪んだ。
「肩」
「少しくらいなら、大丈夫。それに、ここから先は、リョーマが頑張ってくれるんでしょう」
 顔を歪めながら、それでも微笑う彼に、俺は頷いた。その首に腕を回し、傷の開きかけた肩に唇を寄せ、落ちないように彼にしがみ付く。くすぐったい。傷から流れる血液を舐めとる俺に、彼は微笑った。口内に広がる血の味が、俺を興奮させる。昨日の野性は、未だ、体に残っているらしい。
「ごめんなさい」
 ベッドの上に俺を下ろした彼に呟く。何、と訊き返されたけど。俺は、何でもない、と微笑い返した。
 そうして、その言葉を最後に。俺も彼も、人間ではない生き物になって行った。





続きを読みたいという意見があったので。
『月夜』から半年後。
あの時の文体にならなくて困りました。多少は意識したんだけど。やっぱり違うね。
この話を書きながら。『月夜』とこの『満月』の間のネタがおぼろげながら浮かんできました。
もしかしたら、また、この二人を書くかもしれません。
「?」とか「…」とか使ってないから、ちょっと読み辛いかも知れませんが。お許しください。
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