赤い絆 4
「やるしかなかったんだ。やるしか」
 みちるをその場に残し、独り夜の海までやってきたはるかは、何かを叩き付けたい衝動に駆られていた。だが手頃なものなど何処にもなく、ポケットを探るとリップロッドが出てきただけだった。
 月光を受け冷たく光るそれを固く握りしめ、思い切り腕を振り上げる。
「くそっ」
 しかし、それを投げつけることなど出来るはずもなく。はるかは呻くとかかげた手を静かに下ろした。
 自分とみちるを繋ぐためのものだと思っていたロッドが、いつの間にか二人を引き離すものになっていたことが、酷く恨めしかった。
 いや、違う。こいつが悪いんじゃない。悪いのは、弱い僕だ。
 もう少し自分に力があれば。そうでなくとも、せめてコンマ何秒かの素早さがあれば。あの場を惨状にすることなく敵を倒せたはずだった。自分を責めるはるかの脳裏に、怯えたネプチューンの姿が浮かぶ。
「みちる」
 折角、この手を血で汚さずに世界を沈黙から守れたっていうのにな。
 目の前に広げた両手。変身を解くと同時にその色は消えたはずなのに、月明かりの下、はるかの目にその手は赤黒く染まっていた。
 その色を落とすため腕で何度も手のひらを拭う。だが元々存在していない色がそんなことで消えるはずもなく。
「くそっ」
 吐き捨て、そのまま自分の両腕を抱きしめると、はるかは膝を突いてうずくまった。ジャケットを通してでも痛みが伝わるほどに、強く爪を立てる。
 いっそ、こいつを切り落としてしまえれば。
 思い出す、一匹目の敵を倒してからの自分。
 ウラヌスの渾身の一撃により、敵は跡形もないほどに消し飛んだ。いや、消し飛ぶはずだった。
 そうならなかったのは、敵が頑丈だったからなのか。それとも思っていたより体力の消耗が激しく、そこまでの威力のある技を放てなかったからなのか。どちらにせよ、ウラヌスの放った天界震は敵をバラバラにしただけだった。
 予想もしなかった事態。爆風と共に自分を襲う敵の血肉を浴びながら、ウラヌスは自分のしたことに絶叫した。つもりだった。だが、それは出来なかった。
 ウラヌスの口から零れてきたのは、叫びなどではなく。笑みだった。それも、その光景を心の底から愉しんでいるかのような。
 それからのことは、単なる映像としての記憶でしか、はるかは持ち合わせていなかった。
 あの時の自分が何を考えていたのか、分からない。ただ分かるのは、残忍な笑みを浮かべたままネプチューンの元へ向かい、そこでも同じように敵の血を、それも嬉々として浴びていたという事実だけだった。
 あの時の力が出せれば、この腕も。
 爪を立てた手に力を入れながら、はるかは思った。
 だが、例えその腕を失ったとしても何も変わりはしないであろうことは、はるか自身、泣きたくなるほどに分かっていた。
 ネプチューンに名を呼ばれたとき、我に返ったウラヌスは血塗れの自分に絶望した。しかしそれ以上に、口角の下がった感覚に恐怖していた。錯覚などではなく、自分は確かに笑っていたのだと、強く思い知らされた。
 混乱の中、大丈夫かとなんとかネプチューンに微笑んで見せてはみたものの。その言葉は、実際には自分に向けたものだった。またそれは、ネプチューンにかけてもらいたい言葉でもあった。
 大丈夫。今、貴女が別人のように思えたのだけれど。何かあったの。
 そんな科白がネプチューンの口から出てくることを、ウラヌスは期待していた。
 しかし実際に大丈夫かと言ったのはウラヌスであり、ネプチューンは何か言葉を発するどころか、血塗れのウラヌスに恐怖し、その手を拒絶した。
 そのことが、笑っていた自分も今こうして絶望している自分も同じウラヌス、天王はるかという人間であることを、はるかに実感させていた。
「どうしたらいいんだ」
 戦闘中、体の感覚がなくなり、ただ網膜に入ってくる映像を眺めているだけという事態に陥ることを、はるかは過去に何度か経験していた。だが、それは覚醒して間もなくのことであり、ウラヌスの力を上手くコントロール出来ていないせいだとはるかは思っていた。
 しかし、今回は違った。
 数多の戦闘を経た今では力を完全にコントロール出来るようになっていたし、それよりなにより、あの時のウラヌスは戦闘を心底愉しんでいた。その感情は、力の暴走からくるものでは決してない。
 もう、みちるには触れられないな。僕の汚れに、巻き込むことは出来ない。彼女は、何処までも美しいから。
 しかしだからといって、いつまでもここに佇んでいられないことは分かっていた。
 思考と感情が必ずしも一致しないってことくらい分かってるさ。
 はるかが迂闊にも漏らしてしまった言葉。慌てて取り繕ったが、勘のいいみちるのことだから、いつその言葉の真意に気付いてしまうとも限らない。
 みちるを傷つけたくないのに。ただ、守りたかった。それだけなのにっ。
「どうして、こうなってしまったんだろうな」
 力なく呟いたはるかは、なんとか立ち上がると、眼前に広がる黒い海をぼんやりと眺めた。
 降り注ぐ月の光は何処までも青白く、あたたかいはずのそれは刺すように冷たく感じられたが。体を支えるために掴んでいた白いガードレールが錆び付いていないことに、はるかは少しだけ安堵していた。


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