赤い絆 5
「ん」
 寒さに身を震わせ、みちるは目を覚ました。
 そこは見慣れた風景ではあったものの自分の置かれた状況が分からず、窓から差し込む陽の光に目を細めながら記憶を手繰った。
 そうだ、私。
 血塗られたウラヌスに、どうしてこうなったと問い詰められて、その血に赤く染められて。その恐怖で。私は、気を。
「はるかっ」
 絶叫し気を失う寸前に無表情だったウラヌスが見せた哀しげな笑みを思い出し、みちるはソファから飛び起きた。この場所で自分がいつまでも眠っていたのだからとは想いながらも、一縷の望みに賭け、はるかの部屋をノックする。
 掴んだドアノブは、容易く回った。
 元々はるかは部屋に鍵をかけない性格であったので、それは当然といえば当然であったが、みちるは鍵がかかっていなかったことに少なからず落胆していた。
 もし、鍵がかかっていたとすれば、それははるかが帰宅している、もしくは一度帰宅したというこ証になったからだ。それが同時に、はるかが自分を拒絶しているという証になったとしても。
「はるか」
 予想したとおり、開け放ったドアの先にみちるの求めた姿はなかった。
 誰もいない部屋に入り、はるかのベッドに身を投げる。枕に顔を埋めると、求めていた匂いがして、みちるは胸を締め付けられた。
「一体何処へ行ってしまったの」
 呟いて、みちるははるかの行きそうな場所に心当たりがないということに気が付いた。
 それは自分がはるかの総てをまだ知らないだけなのだろうと一瞬みちるは考えたが、このマンションに引っ越してきた時にはるかと交わした会話を思い出し、それは自分に都合のよいだけの甘い考えだと知った。
 これからは、ここが私たちの帰る場所になるのね。
 それは、どうかな。
 えっ。
 場所なんて、どこだって。関係ないんじゃないかな。確かにここは僕たちが二人で暮らす場所ではあるけど。でも、暮らす場所であって、帰る場所じゃない。僕が帰るのは、いつだって君なんだ。みちる。
 そう言ってみちるの手をとって微笑んだはるかの温もりが、今にも甦ってきそうなほどに鮮明で、みちるは泣きそうになった。
 そうね、とあの時のみちるは確かに微笑み返していたことも、思い出す。
 なんてことをっ。私ははるかから日常や夢を奪っただけでなく、帰る場所まで奪ってしまったなんて。
 今更になって気付いたはるかの言葉の重さに、みちるの頭は混乱し始めていた。何をしたらいいのか分からず、ただ枕に顔を埋め、叫ぶように何度も心中ではるかの言葉を繰り返す。
 一度も口にしたことは無かったが、みちるははるかがリップロッドを手にしたその時から、罪悪感を抱き続けていた。
 自分のつまらない告白のせいで、はるかを同じ戦士の道へと引きずり込んでしまったと、ずっと悔やんでいた。それをはるかに言えなかったのは、悔やみながらも、そのお陰ではるかと共に在ることが出来るようになったことを心の何処かで喜んでいたからだった。
 身勝手な感情。それがみちるの口を固く閉ざし、またそれが、みちるの罪悪感を重いものにさせていた。
 私はレーサーになるというはるかの夢を奪った。世界を沈黙から救った後にやってきた平和な日々だって、いつまた戦いの中に引き戻されるかも分からないという不安に、少なからず悩まされていたはずだわ。だからえめて、ほんの僅かでもいいから、はるかに安らぎを与えられたらって。そう、思っていたのに。それなのに、私はっ。
 見るともなしに見ていたはるかの部屋がぼんやりと歪んでいく。みちるの目には、今にも零れ落ちそうなほどの涙が溜まっていた。
 しかし、みちるは泣くわけにはいかなかった。泣くまいと思った。泣きたいのは傷つけられたはるかであり、またここで自分が泣いたとしてもどうにもならないと分かっていた。
 だが。
「そんな」
 気付いてしまった真実に、みちるの目からはついに涙が溢れ出してしまった。泣いたからといって何かが変わるわけではないと分かっているのに、泣くことを止められない。
 思考と感情が必ずしも一致しないってことくらい、分かってるさ。
 淋しそうに呟くはるかの姿が、甦る。
 あれは確かにはるか自身に言い聞かせていた言葉だったけれど。でもあれははるかを指していたわけじゃない。あれは。あの言葉は、私のことを言っていたんだわ。
 感情としての拒絶。頭の中ではそれもはるかだってちゃんと分かっていたのに。でも、意識できない部分での拒絶だからこそ、はるかは酷く傷ついた。だから、あんな表情を。
「私は。貴女の、手が、好きよ」
 涙に震える声で、みちるが呟く。
 その言葉が以前はるかを救い、二人の絆をより強くしたことに間違いはない。しかし今となっては、主のいない部屋に虚しく響くだけだった。
 バカみたい。
 泣き止むことを諦めたみちるは、滲んだ視界のままでぼんやりとはるかのデスクを見つめた。その隣には、みちるの描いたはるかの絵が飾られている。
「はるか」
 私がはるかの目の前で初めて変身し、ダイモーンを倒した時、貴女は傷ついた私を抱きとめてくれた。人を殺めそうになった私の手をとって、傷の心配までして。怖かったはずなのに。ダイモーンも、目の前に突きつけられた運命も。そして、得体の知れない私のことも。怖かった、はずなのに。
 あの後、みちるを守るとはるかは誓った。夢を失ってしまうだろうことも、その手が血で汚れてしまうだろうことも構わず。ロッドを手にしたはるかは、みちると共に歩むと近い、みちるを安心させるよう微笑った。
 そんな優しいはるかを、私は。
 拒絶、した。
「私は、貴女の手が好きよ」
 この言葉は嘘じゃない。今でもはるかのことは好き。
 だけど、でも。
 優しく微笑って手を差し伸べるはるかの姿に、赤い色とあの笑みが重なる。
 その恐怖に、やはりみちるは顔を歪めた。けれど、何度か深呼吸を繰り返すと、震えながらも何とかその手を伸ばした。
 はるか。はるかっ。
 血に塗れたはるかの手に、みちるの手がようやく触れる。それは存在しないもののはずなのに、何故か見知った温もりを感じさせた。
 単なる気のせいなのか、体に染み付いた記憶なのか、それとも。
 だが、みちるにとって、それが錯覚であろうと無かろうと構わなかった。存在しないはるかでも、血に塗れたその手を温かいと感じられたことが、何よりも今のみちるを安堵させていた。
 大丈夫。本物のはるかの手も、きっと温かいわ。
 繋いだはるかの手に導かれるよう立ち上がったみちるは、頬に残る涙の跡を拭うと、ソファに掛けたままになっていたコートに腕を通した。


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